権兵衛の受験記

「人間は2回死ねない」と言う言葉を抱えて医者を目指して生きてゆく。そんな浪人生のブログ。

後期入試から今までのご報告(その1)

文化祭で一緒に活動した友人と旅行に行っていてその後すっかり更新を忘れていた。こんなブログの更新を待ってくれていた人もいたらしいので申し訳ない。

 

312日に後期入試を受けに行った。

まあ受かるだろう。そう思っていたし、実質センターで決まるみたいなところがあったから、理Ⅲ志望者あるいは早稲田などのセンター利用でなければ十分な得点を取っていた俺は、朝起きてからネットで少し調べ物をしたり、コンビニに昼食の調達に行ったりと、調子に乗った行動をしていた。2日前に不合格通知を受け取ったものとは思えない行動である。

 

泊まった宿の近くのたこ焼き屋の店主がなぜか受験に詳しく、受験について色々な情報を手に入れることが出来たのだが、どうやら琉球大医学部の後期試験は地元沖縄のトップの高校生が前期で旧帝大などの医学部を受けてその併願で受けるのが大半らしい。そして彼らのうちの一部はより高いレベルの大学に入り直すために2年程度で辞めるらしい。琉球大学で仮面浪人することも視野に入れていた俺にとってこの情報は有益だった。国立医学部の仮面浪人は叩かれると聞いていたから。

そんなわけで適当に後期試験の対策のために面接の参考書などを読み、落ちる確率を少しでも下げるために対策をしていた。

 

前日の試験会場下見の時はてだこ浦西駅までゆいレールで向かい、そこから徒歩で写真を撮りながら大学まで行ったが、坂がかなりきついので、面接のスーツに汗が残ったりしたらマズイ(下見の日の那覇市の気温は24度だった。しかも3月とは思えないほど太陽が高い位置にある。)とかそういったことを考えて、東京に比べタクシーも安いのでタクシーで大学まで向かうことにした。

この時に運転手のおじさんがお釣りの計算が面倒だったらしく30円ほど負けてくれたことだけはなぜか覚えている。

そうして試験会場に着いたわけだが、他の受験生の目つきが恐ろしいと言う言葉では形容できないほどであり、旅行みたいなノリで来ていた俺は圧倒されてしまった。

このままでは精神での戦いに負けてしまうと思い、行ったこともない北九州予備校の激励の人に手を振って挨拶をし、激励されるなどした。

東京の受験生に監獄と呼ばれ恐れられている北九州予備校の威を借りれば他の受験生も俺のこの余裕を理解してくれるだろうとか、適当なことを考えていたのだった。

試験場は割と人がおらず、見た感じ実質倍率は4.5倍程度だろうか。出願情報を見ていないから正確にはわからないがもともと8倍程度であったことを考えればかなりの人が前期か併願に受かったということになる。おめでとうございます。まあ後期医に出せてるあたりセンターでそれなりの点は取れていそうだし受かるのかな。わからない。

 

小論文試験が始まる10分前くらいに試験官の男性2人が入って来た。片方が声で合図をするのだが、彼の喋り方が唐沢貴洋のような感じで流石に笑ってしまった。そして小論文のために勉強して来た医学の断片的な知識をぶつけるその時が来たのだとか適当なことを考えながら問題冊子を受け取り、試験開始の合図を待った。

 

解答始め。

 

問題冊子を開くと、そこに書かれていたのは医学系の小論文の問題ではなくて、英語で書かれた生物の問題だったのだ。これには驚いた。そう、俺は過去問を解いてもいないし見てすらいなかったのだ。

 

終わった。

 

そう思った。

 

そして俺は冊子を閉じて深呼吸をした。

 

 

 

長くなったので続きは次回。といってもこれを投稿しながら何を書くか考えてはいるが。

東大の開示について(その1)

東大に落ちた翌日、開示が送られてきた。送られてきたという表現は適切でないかもしれない。というのも俺は後期の受験のために沖縄にいたからだ。後期入試の自信をつけたいという思いから東京の自宅にいる母親には届いたらすぐに開示を送って欲しかったので何度も何度も開示を送ってくれというLINEを送った。そして午後5時くらいに母親から開示の写真のLINEが来た。

 

送られてきた開示の写真を見ると、国語52点、数学75点、物理36点、化学36点、英語54点、センターは自己採点通り838点を換算した値で合計355点くらい。理Ⅰの合格者平均点よりは少し上で、30点差で落ちているという結果だった。不合格者ランクはA。案外ボーダー付近に人がまとまっているというわけでもないんだなと感じた。

開示についての各科目の分析は次回以降に譲るとして、感情面での反応を書いていこうと思う。

 

「ギリギリ落ちたかな。」と入試が終わってすぐの頃からずっと考えていたから思ったより点数が取れていないな。詰めが甘いな。そう思ったことを覚えている。

英語と理科の点数が悪いのは、模試でD,E判定ばかり取っていたからセンター得点でのB判定、そして1日目にうまく行ってしまったことで、こんなにうまく行くはずがない、というある種の焦りを感じていたからなんだと思う。

 

要するに、自分の勉強というものに対して自信が持てていないのだ。

確かに、俺の高校では文化祭などが盛んで、俺は文化祭と勉強の両立がうまくできてなかったように思えるが、同じ高校から理Ⅲに合格したのは中学から勉強したうえで行事を要領良くこなす奴だったし、高2から勉強を開始した自分は勉強量不足という面があるのは否めない。

しかし俺は量の面での不足を補うために自己分析とまとめノートによる学習を、特に理科に関しては行っていたではないか。なのに物理の第1問の原子物理のところで計算問題の答えの数値オーダーが合わないことから徐々に焦り始め、化学に入って立て直すも英語の時点では1日目の勢いというものをもはや失ってしまっていた。英語も直前期の演習では80点を超えるようにはなっていたから、言い訳がましいが普段の調子を出せなかったという感じで受験が終わったのだった。(しかし流石に54点しか取れていないとは思わなかった。これについてはまた今度。)

 

そしてそのまま迎えた面接。どうせ落ちているからと無気力だったので教授陣の質問に答えられず再面接となった。最初の面接では面接官は3人なのだが、再面接では5人となり、また「東大の面接は異常な人間しか落とさない」という話を聞いていただけに、「自分がその『異常な人間』なのではないか」、「自分は医師としての適性がないのではないか」などという考えに支配されうまく話せず、神頼みに面接後に湯島天神に行ったときには涙で目が腫れていた。プライドだけは一人前なのでその後に御徒町駅のトイレで隠れるようにして30分くらい泣き続けた後に涙を拭き、鏡で何度も自分の顔を確かめてから鉄緑の先生に相談しに行ったのだった。

 

だから、開示を見たときは、これらの出来事を思い出すとともに「ああ、落ちたんだな。負けたんだな。」という感情を再度感じることになってしまった。開示を見て後期入試への自信をつけるという当初の目標は達成されないばかりか逆に自信を失ってしまった。

 

宿の外のコンビニまで歩いておにぎりを買い、宿に備えてあったポットで白湯を作って夕食とした。そして、明くる日の後期の入試に臨んだのだった。

東大に落ちた話

2020年3月10日12時、俺は東大に落ちた。

親に高い学費を払わせたくないと言う理由と、医師以外の医学的な専門知識を生かした職業も視野に入れたいと言う理由から理Ⅲ以外に私立大は受けず、国立後期試験を除いて併願校はなかったのでほぼ浪人が確定した。

様々な理由から理Ⅲを志すようになった高2の初夏の日から、理Ⅲを目指す人間の中では遅い方だったが勉学に励んできた。でもそう簡単に受からせてはくれないようだ。

 

離島での医療に携わりたいと言う気持ちもあり後期は琉球大学の医学部に出願した。しかし、自分一人で医師の地域偏在の解消に貢献できるなんて考えは傲慢であると言うことを日に日に感じるようにもなった。

 だから、ほぼ浪人することになったと書いた。

 

もちろん、医師でなくても、社会や他人のためになる仕事はたくさんある。医学部以外の大学の受験も視野に入れた。でも、後で自分の人生を振り返ったときに入試難易度が難しいからと言う理由で理Ⅲ受験から自分が逃げたという事実とそれに対する後悔があったら、どのような職を選んだとしても大きなことを成し遂げられるような人間にはなれないと思い、浪人を覚悟して理Ⅲを受けることにした。

 

だから今、落ちて悲しいと言うよりは、もう一年、やってやろうじゃないかと言う気持ちの方が強い。

でも流石に、母親から、「あんたはよくがんばったよ」という言葉をもらったときには泣かずにいられなかった。悲しかった。悔しかった。

今日から俺は、親に迷惑をかけるんだ、浪人するんだ。

そう思うと、涙が止まらなかった。

 

この涙は二度と流さない。